わむぱむ哲学。誕生日を迎えるとは?

「誕生日を迎えられる」この事だけで、本当はとても素晴らしい事なんだと思うんです。実は私は30歳の時に主人を交通事故で亡くしています、、、。主人もまた同じ年齢でした。つまり、彼はこの世に生まれて30回の誕生日は迎えられたけれど、もう二度と歳を重ねる事はないんです。主人に対しては時々”あなたは一生老けなくていいね!”と思います。でも、本人としては間違いなく「歳をとりたかった」事を私は知っています。当時2歳の1人息子を残しての突然の他界。本人としては、普通の家族が当たり前にするように、毎年毎年家族と誕生日を迎えたかったに違いありません、、、。その事を思うと、私自身”今年もまた誕生日を迎えられた” ”誰かにオメデトウと言ってもらえた”という事が、『どれだけ素晴らしい事で、どれだけ感謝すべき事で、どれだけ恵まれているか』という事実を感じずにいられません。今年無事にこの日を迎えたという事は、”この歳も一生懸命生きなさい”って誰かに言われているのと同じ事。失敗や後悔もする事もあるだろうけれど、それをやり直すチャンスもきっとある。”生きている”、”生かされている”からこそ迎えられる年に一度の仕切り直し。それが誕生日。 誕生日に考えるもう一つの事。それは、自分の親への感謝の気持ち。ここ数年、私は気づけば毎年誕生日には、自分の親にありがとうメールをするようになっていました。父と母が出会ってくれたからこそ、二人がいたからこそ私は”存在”出来たんだと思うと、むしろ誕生日に自分が「おめでとう」と言われる事さえ妙な気になる事があります。だって私自身は36年前の記憶上では特に何も頑張ってないですし。 数ヶ月もの間 私をお腹に持ち、あの痛みに耐えてこの命を世に送り出してくれたのは母1人です。 母が私を妊娠した時、私の”父親”になる覚悟を決めてくれたのもこの世で父ただ1人です。 そう考えると必然的に誕生日にプレゼントをもらったり祝福の言葉もらうべきなのは、自分の親なんじゃないかという思いが年々深まります。暦の上では一年の初まりは1月1日。だけど、より初心に戻って人生を見つめ直すのはそれぞれの日常の中で迎える誕生日。お祝いの言葉をくれる人たち一人一人に感謝し、その日に一緒に過ごしてくれる人に感謝し、日々”生かせてもらえている”という大きな事実に感謝する。この日はまずそれからスタート。そして、この時期に自分のルーツを改めて振り返る事、その道のりを見つめ直す事で、また来年の誕生日までの日々の時間を大事に出来るような気がします。命が尽きる日は自分では選べない。だからこそ、今を大事にする事を考える。そして、『今』がいずれ『未来』に繋がる事を考える。暦上の世間のイベント的なお祝いムードの時にのみ気持ち踊らされるのではなく、自分の存在のルーツを見つめて気づく事、すべき事を考えるべき日が「誕生日」。少なくとも私はそう思います。]]>

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