名言。

「人との出会いは人生を豊かにする。」 「人との別れはその思いを強くする。」 先月主人の7回忌法要時に聞いたご住職のお説教です。 それは久しぶりに強く心に残った名言でした。   主人の突然の訃報から先月末でまる6年という月日が経ちました。果たして自分はその現実をちゃんと理解しているのか?受入れられているのか?正直それは分かりません。なんていうかなぁ、、、。近い存在の人が突然姿を消すというのは、やはりそんなすぐに納得いくものではないです、、、。 ただ、、、ただ、私はいつの日からかその事実に何か「意味」や「価値」や「役割」を見出すような心の働きをするようになっていました。なぜならそうしていると、その悲しみへの心の処理作業そのものが生きて行くための原動力に繋がるような気がしていったからです。最終的な答えを得られる得られないは別にして、それらの答えの模索自体に意味があると感じたのです。それは少なくとも無駄には生きてはいない。肉体的な生きるではなく、むしろ故人への敬意を表し生きているという感覚です。 そしてその心の作業を通じて、少しでも自分の疑問の答えを紐解く「ヒント」や「鍵」が得られた時は、自分を取り巻く全ての人達に感謝の気持ちが溢れ出します。自分は”生きている”というより、”生かされているんだ”という気持ちに辿り着くのです。 こんな私が今生かされているのにも、きっと何か「意味」があるはずなんでしょう。役割や価値さえあるのでしょう。それを探す事が私にとって『堂々と人生を歩む理由』の一つ。それは6年経って得た私の論理の一つです。同時にそれは主人への心の供養の一つだと感じているのです。   ー出会えて良かったー きっと全ての事に意味があるんだなぁ、、、。 無駄な出来事、無駄な出会いはないんだなぁ、、、。 今、自分の周りにいる人との出会いは、いい人も悪い人も自分の人生において必要不可欠だったんだ。意味があったんだ。そういう気持ちにさせてもらえるのも、別れがあったから、、、?そう考えると主人の早すぎる旅立ちも無駄ではないはず。もちろんそれは無駄と思いたくない強い思いからの”こじつけの感情”なだけかもしれません。ただ、その辛い現実と共に生きていくためにはそこに何かの「意味」を添えてあげる事で遺された者の心が少しでも楽になる事は事実なんです。少なくとも私にとっては。 なぜなら、どう努力をしても過去は変わりません。受入れがたくても事実は事実としてそこに存在するのです。問題はそれをどう受けとけるかによって、人は幸せにも不幸せにもなるという事。 そしてまさに、この日々の心の作業が冒頭で記述した「別れが思いを深くする」という言葉の読解の一つに当てはまるのだと私は感じます。永遠の人との別れは耐え難いものです。ですが、「そこに意味する事」というのは必ず存在します。 今もし人生に戸惑っている誰かがいたら、ぜひ探してみてください。この世を去られたあなたの大事な人があの世で安心して安まれますように。  ]]>

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